ライラック友の会【公式サイト】 丸正自動車 ライラックモーターサイクル Lilac Motorcycle

ライラック友の会

1948年設立、1967年に倒産した丸正自動車。第1回浅間火山レースでホンダを抑え優勝したライラック ウインナーSYを世に送り出したメーカーである。その後数々の名車を世に送り出すも、時代の波に飲まれ日本の2輪史から消えていった。
ライラック友の会は、前例のない倒産したメーカーのファンクラブとして1976年に結成された。

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序 文

かつて、〔1948年(昭和23年)~1967年(昭和41年)〕静岡県浜松市に「ライラック」と名付けられたオートバイを生産する2輪製造メーカーがあった。
会社名は丸正自動車製造株式会社。設立したのは伊藤 正(いとう まさし)〔1913年(大正2年3月16日)~2005年(平成17年3月23日〕で、50ccから500ccまでほぼ一貫して後輪駆動にシャフトドライブを採用し、進歩的な技術でユニークかつ高性能なオートバイを世に送り出し、創立時には10人程の従業員数もライラック人気の高まりと共に急速に発展し、1955年頃には全社で700人程の一大企業となった。しかし、高度成長期の波にのまれ、主に経営面のつまずきから、1961年10月12日に倒産。しかし伊藤のオートバイにかける情熱は全く失われる事なく、会社存続の為に会社和議法を申請し、ホンダの下請けをして再建するということで和議に持ち込み、翌年1月に和議を成立させ、ライラックオートバイの再興を期したのである。

1958年に着工された名神高速道路もその距離を着々と延ばし、一般道路もどんどん整備されつつあった当時、今後は高速化の時代が来るとみて、水平対向500ccの大型オートバイR92を開発、1963年10月のモーターショーで発表、発売にこぎつけた。又、この当時はすでに貿易自由化に向け動き出していた事もあり、高速道路網の発達したアメリカへの輸出を計画し、伊藤は調査の為にロスアンゼルスに飛んだ。R92を100台も出せば採算がとれる見通しがつき、販売代理店契約もして帰国、R92の生産を開始した。R92は開発後、矢継ぎ早にマイナーチエンジされ、輸出用にはセル付のマグナムエレクトラも用意された。
市場には好評をもって迎え入れられ起死回生のヒットになるかと思われたが、生産の方が思うように進まなかった。債権者側はアメリカへ行く金があるなら負債を返せと迫ったり、あらん事か取引先に悪い情報を流したりする者もあり、前金でなければ資材を出さないという取引先も出はじめ、加工外注先でも同じ様な事で、100台の生産さえおぼつかなくなってきた。又、すでに輸出した車の初期トラブルでアメリカへ渡って修理することになったり、生産が間に合わず納期が守れずに契約違反になり、そのあおりで代理店が銀行取引停止の処分をくらってしまった。この代理店契約の時に間に入った外交官が法外なマージンを要求してもいた。
このアメリカの販売代理店の取引停止はまさに致命的で、矢尽き刀折れる心境で伊藤は会社の整理にはいった。1967年末、2度目の倒産、ライラックの臨終だった。
こうして、生産されたライラックとそれを愛するライラックファンを残したまま、丸正自動車製造は日本のオートバイ史から消えていったのである。

1967年の2度目の倒産から9年後、1976年(昭和51年)、バイク雑誌の売買案内に、R92売りたしの記事を出した愛知県岡崎市の水野和夫に連絡をとった浜松市の日置義明、お互い熱心なライラックファンとして意気投合した二人は、前例のない倒産したメーカーのファン倶楽部をつくろうと「ライラック友の会」の結成を全国のライラック愛好者に呼びかけたのである。
ライラックは1959年(昭和34年)には125cc、250cc、300ccの3クラスをすべてVツイン化していた。しかし並列2気筒のヤマハのYDS,ホンダのCB72はスーパースポーツを売りにしたが、これに対抗するべきライラックLS-38は、スポーツモデルではあったが今でいうところのツアラーとしての良質な性能を有してはいたものの、高度成長経済の元スペック至上主義が大半を占めた当時のオートバイ愛好家の多くは、スーパースポーツ志向のCB72、YDSを選択した。
シャフトドライブという独自の道を進めたライラックは、趣味的嗜好の少数個性派はひきつけたが、倒産の1961年までに生産されたVツインの車両は3万台程で他社に比べ少数だった。又、倒産は車両を維持していく為の補給部品も車両同様生産が途絶える訳で、実動状態の車両は急速にその数を減らしていくものである。2度目の倒産から9年「ライラック友の会」の会員募集を呼びかけたものの反響はあるだろうか?
しかし、二人の不安は杞憂に終わった。北は福島から南は島根まで30名程のライラックファンから連絡が届いたのである。そして翌年1977年(昭和52年)3月20日~21日にミーティング「第1回ライラックの集い」をライラックの生まれ故郷である浜松市森田町で行ったのである。この年は10月に再度第2回目を行ったが、それ以降は年に1回秋に「ライラックの集い」を、又、1989年からは春にツーリングも行われる様になり以降は春のツーリング、秋のミーティングが定着して、今年2015年はミーティング「ライラックの集い」は第40回「ライラックツーリング」は第26回を数えることになる。
振り返ってみれば、ライラックの丸正自動車製造が活動した20年間の倍の期間を細々ではあるが会を運営し続けてきたということ、ましてや倒産して無くなったメーカーのバイクの愛好会としては、世界的にみても稀有な存在ではないだろうか。長きに渡り、続けてこられた理由は、一番には会を立ち上げた日置会長と水野事務局の尽力があってこそではあるが、会員各位の、ライラックだけにかぎらず古き良き物への愛情と敬意、それを何とか復元維持しようとする努力、そういうものもあってこそ、ここまでやってこられたのではないだろうか。
日本には車やバイクなどを文化として扱う風潮が少なく特に古い車両に対する税金、多数所有の場合の保険など、何とかならぬかと思うが、最近別冊MCで読んだ記事で我が意を得たりと感じたものがあったので引用させてもらいたい。神山記者がロイヤルエンフィールド・コンチネンタルGTの試乗でイギリスに行った折の、ミュージアム見学の報告記事の一部だが[いずれの施設からも感じ取れるのは、自国産業がたどった歴史への限りない愛情である。ご存じのとおり、英国においては2輪車だけでなく、4輪車、航空機といずれの産業にも昔日の勢いはない。それゆえの過ぎし日の栄光を懐かしむ・・・というだけではないだろう。そこには先人たちの知恵や努力に対する敬意が、多分にして含まれているはずである。(中略)建築物については、比較的保存しょうという動きになりやすい一方で、2輪・4輪含めた工業製品を“文化の一端”として慈しむ土壌が日本にはいまだに出来ていないのかもしれない。]
動く文化遺産ともいうべき旧車を再生可動させる作業はさまざまな困難を伴うが、「1台でも多くの動くライラックを」の合言葉で情報交換や部品の融通、リプロ品の製作等で助け合いながら、半世紀を過ぎた車両で、ツーリング会が出来るのはうれしいかぎりである。

一昨年(2013年)秋のミーティングの際、水野事務局から再来年(2015年)のミーティングは第40回になるので、ひとつの節目として展示館の様な会場を借り、1週間位の期間で一般の人にも自由に入場してもらい、ライラック車を見学してもらう様な催しをしてはどうかと提案があった。
会員の平均年齢も60歳を大きく超えてしまい、又、昨今の若者のバイク離れもあり、世代交代も出来ていない現状を考えると、ライラックだけでなくの日本の旧車のこれからも、何とも心もとない状況であると言わざるをえない。
先人の知恵や努力の結果である旧車を、工業製品文化として多くの人に知ってもらい、その中から会の活動にも興味も持ってもらえる人が出てきてほしい、そういう期待を込めて一石投じるのもよいのではないかという事で会場をさがし始めた。出来ればライラックの生まれ故郷である浜松市でと思ったが、適当な会場が見つからず安城市の市営ギャラリーに決めかけていたところ、急に浜松市の方からオファーがあり、市立博物館の別館をとの事。先方の希望内容を聞いてみると、2012年に開催した「浜松ものづくり展 浜松オートバイ列伝」が好評で(1ヶ月間で1万3000人来館)、パートⅡと題して、丸正自動車とその設立者である伊藤正氏を取り上げてみたい、期間は1ヶ月、できれば歴代のライラックを集めてほしいとの事だった。
当初の、1週間で会の費用で行うなら、車両等にしても有志の会員で何とかなっただろうが、1か月の期間と、ましてや市が博物館の入場料をとってのこととなると、それなりの台数、内容は必要となり、もはや有志会員だけでは不可能で、ライラック友の会の総力を上げて取り組まなければならない。
会員の意見集約をと5月のライラックツーリングに参加した会員に計ったところ、これまでのライラック友の会の集大成として浜松市の申し出を受け、展示会を開催しようではないかということになった。
決定になれば広報活動も市の方でやりますとの事ではあったが、会の方としても今まで全くやってこなかった広報のひとつとして、ライラック友の会の正式ホームページを立ち上げて、展示会に向けて情報発信していったらどうかの意見も出て、今回こうしてホームページ[ライラック友の会]を発信していくこととなったのである。
ホンダの創業者、本田宗一郎とライラックの伊藤正は、本田のアート商会時代の師弟関係であったことはライラックファンにはよく知られていることだが、その下でオートバイの設計にあたった、ライラックの溝渕定とホンダの河島喜好も、お互いに浜松工専(現、静岡大工学部)の出身で、会社の設立もほぼ同時期である。そんな似通ったところのある両者(両社)が、ライバルとして戦後の1950年代を切磋琢磨しながら、競争(オートバイレースも)していったが、ホンダは今、世界企業のHONDAになり、ライラックの丸正自動車製造は奮闘むなしく消えていかざるをえなかった。
そこには何があったのか?そんなことも今後のホームページの中で記述してみたいとは思っているが、文才のなさと乏しいボキャブラリーしか持ち合わせていない筆者としては、ここまでの記述でも、過去に出版された文献を参考、引用させてもらいながらようやく書いている状態で、こういう事に長けた人にお願いしたい心境である。
ともあれまずは今秋9月19日土曜日から10月18日日曜日のライラック展にはひとりでも多くの人に来館していただき、ライラックを知ってもらい、展示会を成功させたいと考えています。進捗状況等は随時ホームページで流していきます。
今後共友の会会員各位の協力で充実した内容のホームページに育てていきたいと思っています。

文中敬称略

参考文献
  八重洲出版  国産モーターサイクル戦後史
    〃    日本モーターサイクル史
    〃    別冊モーターサイクリスト№415
  天野久樹著  浜松オートバイ物語
  日本出版社  バイカーズステーション